title 見える見えない VISIBLE/INVISIBLE

 ● about



はじめに

ちょっと長いのですが、本プロジェクトを始める2か月ほど前に書いたステートメントをまず載せておきます。
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謎かけのようなタイトルになってしまった。その意味を説明する前に、まずは、私たちが接しているアートはどのように「作られ」また「見られて」いるのか、制作と鑑賞という点から考えてみたい。
 晴眼者(見える人)は、記憶の中で再現される視覚的イメージをつなぎ合わせながら、新しい視覚イメージを作り出すことをほとんど無意識に行っている。そして、何かを描くとき、イメージの「見る」と「描く」のインプット−アウトプットを繰り返しながら制作をしてゆく。触覚を伴う立体造形でも、やはり見ることが大きな比重を占めている。鑑賞することも同様に、記憶の中のイメージを引っぱり出し、切ったり貼ったり、あるいは重ねたり混ぜ合せたり、自分なりの「見かた」をつくりあげるインタラクティブな創造行為と言える。つまり、「作る」ことはもちろん受動的だと考えがちな「見る」ことも、ともに創造的行為である。
 ある辞書にはこう書いてある。
 −鑑賞(かんしょう)とは、芸術作品などの美的な対象を視覚、あるいは聴覚を通して自己の中に受け入れ、深く味わうことである。−
 では、視覚障がい者はアートを制作し、鑑賞する力が不足しているのだろうか? 
 私にはそうは思えない。正しい鑑賞・制作の仕方というものはもちろん存在しないが、そもそも、先天的に見えない人にとって視覚的イメージは存在しない。つまり、「見える」ことにとらわれることがない。彼らは見える人とは全く違う仕方で、アートのインプット−アウトプットをするということだ。であれば、「見えない」人には、「見える」人たちには経験できない驚くべき創造のプロセスがありそうだ。
 巷は視覚メディアに溢れている。手の中に収まるスマホで、お目当ての言葉をポチッと「検索」すればイメージはすぐに見つかるし、類似のイメージを大量に「おすすめ」してくれる。イメージすることもおざなりなってくる。常に新しいはずのアートさえも、アクセスが自動化され、画一的でコンビニエント、無感動な消費イメージに見えてくる。深く味わうどころか、見すぎることに疲れているのかも知れない。
 そこで問いをひとつ立ててみたくなった。「見えすぎることで、見えなくなっていることがありはしないか」と。
 視覚過剰と言ってもいい世の中で、多くの人が未だ知らない、「見えない」人の創造性に触れ、多くの人と共有することで、新鮮な驚きと多くの学びがあると確信している。
 今一度、鑑賞と制作という原点に立ち返り、アートが持つ本来的な自由さ、多様性と寛容性を改めて考える機会になれば幸いである。

2015年10月
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おわりに

 クロストークでTVを見なくなったという話が出ました。理由は、そこに対話がなく、一方的なメッセージや価値観を押しつけられているような気がする。というものでした。ネットで世界と即時につながる現代社会にあって、もうTVは不要なのではないかという趣旨だったかと思います。共感できる部分もかなりあるのですが、逆に選択できる事によって副作用もあります。「情弱」という嫌な言葉があります。情報を読み解き選択する能力には個人差があるのは事実です。けれども、アートの鑑賞でも、知識や専門性を判断基準にすると、「できない」「わからない」を生み出し、それが「敷居が高い」「場違い」という印象を見る人に与えてしまうのではないでしょうか。これが「アート」だ! 「福祉」だ! みたいな仕組み枠組みを棚上げしおくことも時には必要なのかなと思います。ゲームのように、ものごとの正解により早くアクセスできるというスピードや能力で個人を測るのではなくて、誰もがちょっと立ち止まって考え、会話しながらゆっくり咀嚼して楽しめる場、そんな出会いやきっかけを生み出す場になればと思い本プロジェクトを企画しました。
 私の中でよりクリアになったのは、従来の福祉の公平性や非競合性と、アートの持つ多様性は本来的に矛盾するという事です。ですから、「ここが足りない」という風にものごとをとらえ補填される公共事業と、「こんなのもありじゃない?」という個性的ななげかけを生む多様なアイデアの坩堝(カオス)をいかに接続できるかなのだと思います。アートはどうしてもプレイヤー重視になりがちなのですが、アーティストだけがアートを作り上げている訳ではありません。見る人がいて始めてアートなのです。今回はなるべくそのような公共機関と関わりを持ち、その仕組みを考えながらプロジェクトを進めました。今回の経験を通して、既存の仕組みではそもそも割り切れないものとして、「二者択一」ではなくどういった同居が可能か。これからも常に考えていかなくてはならないと思います。
 とはいえ、何ごともスモールスタートから。なによりの成果として、身近にありながら気づかなかった発見がたくさんあったという皆さんの言葉です。その「気づき」こそ、社会の「タテワリ」で身動きが取れなくなった状況を飛び越えていく動力源になり得ます。そして、それはアートの入り口であり、アートを生み出す土壌のようなものです。このプロジェクトの参加をきっかけに、皆さんが感じている違和感や、息苦しさを少しでも解きほぐしていく事ができたら幸いです。
 最後に鑑賞会のご案内の文章を付記します。長々と書きましたが、この文章にプロジェクトの本質が表れていると思います。この文章はほぼ全盲の越山さんに書いていただいたものです。札幌ではこのような取り組みはほとんど前例がなく、手探りということもあり、企画を組み立てていく段階から、小宮さんや吉田さんにも障がい者の目線から沢山のアドバイスをいただきました。僕の中にも沢山の気づきと学びがありました。ご参加・ご協力本当にありがとうございました。可能な限りお名前を団体名を表記します。

2016年6月


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見えることにこだわらない、自由な鑑賞会を企画しました。
あなたの目に映る絵。それは、ほかの目に映る絵と同じでしょうか。
あなたが心揺さぶられた絵。それは、ほかの心の揺れ方と同じでしょうか。
すぐに正解を求め、湧き出た感情のともしびを消していないでしょうか。
そもそも、美術館は一人静かに鑑賞する場でしょうか。
この鑑賞会では、まず作品から見えるものごとを言葉にします。
そして、多様な人の言葉に触れることで、
自分だけでは「見えないもの」を浮かび上がらせます。
いつもは静かな美術館は、ひととき 見える(晴眼者)と見えない(視覚障がい者)が、
集い語り合う場に変わります。
「見える」か「見えない」ではなく、「感じる」か「感じようとするか」。
一つとして同じ見方はありません。
正解もありません。
けれども、アートを囲み、言葉がおりなした一体感は、新鮮な感動を与えてくれます。
互いの違いに驚き、共感する楽しい時間を過ごしましょう。

新しい鑑賞の世界へ。


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コーディネーター冨田哲司

参加新人アーティスト井口亜紗美、菅野朱里亜 、小林大賀、酒井奈菜、寺岡桃、富士翔太郎

アドバイザー越山正禎 、小宮康生、吉田重子

主催NPO法人フィールドノーツ
共催札幌芸術の森(札幌市芸術文化財団) 
後援札幌市、札幌市教育委員会 、(社)北海道障がい者職親連合会
協力札幌オオドオリ大学
助成平成27年度札幌市文化芸術振興助成金 新人育成活動

*本プロジェクトはアートを通じて視覚障がい者への理解を促進する場を提供し、新人アーティストの視野を広げ、
育成を図るべく、平成27年度札幌市文化芸術振興助成金を受けて実施されるプログラムです。


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